妹の食べるものを僕自身が奪って食べて生き延びたということのほうのね、負い目のほうが、戦争とか何とかよりも、はるかに僕個人にとって大きな・・・まあ、負い目と言うと大げさですしね。
普段、僕なんか大変調子よく生きているわけだから、自分だってほとんど忘れてはいるわけですけども、まあ、年に何度か思い出すわけね。
それが小説っていう形で嘘をついたためにね、逆に非常に深い傷になって僕の中に残っちゃいましたね。
本来なら、僕はもっと残酷な兄貴だったんですね。
で、残酷な兄であることを逃げて、小説を書いて、その小説によって僕は今、稼いでいるわけで。
で、またアニメーションになれば、またお金が入るかもわかりませんね。
それで僕は贅沢をするかもわからないですね。
で、もう、なんか二重三重にね、鬼畜米って言われてた相手から家畜の餌をいただいて僕は生き延びているわけだし。
一方においては、自分自身が食べるべきものをかっぱらって生き延びながら、そのかっぱらった相手を小説というようなものに仕立てて、また金を稼いでるわけです。
しかも、その時に、あたかも自分がそうであったかのごとき主人公を設定して自分を甘やかしているっていうか、そういった、すべての、なんか、自分の営みの負い目を今ここで直面しなきゃならないっていう感じで言うと、僕にとっては非常に苦痛は苦痛なんです。

朗読テープのおまけの 『野坂昭如 自作を語る』 から

「ぼくが口に含み、咀嚼して柔らかくし、与えようとする。気持ちの上ではそうでも、フッと飲み込んでしまうのだ。二度三度繰り返すと、後は開き直って、妹の分まで平らげ、罪の意識はない。」(15ページ)

「現実のぼくは架空の 『清太』 ほど妹にやさしくなかった。夜泣けば頭を小突き、するとおとなしくなる。こんなに小さくても泣けば痛い目に会うとわかるのか。かわいそうで涙が滲むが、二、三日後、またなぐる。ずっと後になり、乳児の首は弱く、頭に対するちょっとした打撃でも軽い脳震盪を起こし、五、六秒失神することがあると医者に聞いて、愕然としたのだ。妹は気を失っていたのか。」(58ページ)

「六月五日から八月二十一日までの、ぼくと妹の過ごした日々に、ほぼ基づいている。妹の歳、場所は違う。なにより作中でぼくらしき同年の兄は餓死してしまう。痩せ衰えるばかりの妹を、兄は懸命に 『自分の指を切って、油で炒めて食べさせたろ』 とさえ思う。自分の食いぶちを与え、妹のために盗む。現実は逆。まだ肉のついていたころ、赤ん坊特有のプクプクしたふとももに、ぼくは食欲を覚えた。罪深くその時に感じたことだが、妹のために咀嚼してやるつもりの炒り大豆カスを、ふと喉へすべらしてしまう。野荒しの収穫は、おおかた響子への貢物となった。なにより、ぼくの気持ちは響子に傾倒していた。妹は邪魔っけなだけ。」(94ページ)

「泣けばなぐる。向いの旋盤屑積めた南京袋の上に置く。伶子の尻に点々と赤いものがあり、虫刺されではなく、袋から突き出た鉄屑の鋭い切っ先による跡。伶子は首がすわらなくなり、もとより言葉を失い、一日寝たきり。」(116ページ)

「伶子の異常な痩せ方に驚いたのは八月二十一日夜。(中略)十八日、配給があった。亡くなるまでの五日間、なんとか妹の口にし得るものを手にした。伶子は少し食べたように思う。木製のスプーンに残った粥、唾で柔らかくした乾パン。ぼくの胃袋に収まってしまったが。」(119ページ)

「母、祖母のかたわらに身を置きたくなくて、さかしらげな言葉を弄し、ぼくは逃げたのだ。伶子の死は自分の責任じゃない。だが、骨と皮の素っ裸を豆殻にくるまれた伶子の遺体眼にして、痛そうだと、いやたしかに痛みが伝わった。同時にぼくはホッとしていた。罪の意識じゃない。自分だけ生き残ったことのやましさなどてんからない。」(126ページ)

『わが桎梏の碑』(野坂昭如著)から

数本、お借りしました。
付け加えた動画に意味はないです。

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