メリト・アコスタ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1290888 / CC BY SA 3.0

#キューバの野球選手
#アルテミサ州出身の人物
#MLBのキューバ人選手
#ミネソタ・ツインズの選手
#オークランド・アスレチックスの選手
#キューバの野球監督
#1896年生
#1963年没
バルドメロ・ペドロ・アコスタ・フェルナンデス(Baldomero Pedro “Merito” Acosta Fernández , 1896年5月19日 – 1963年11月17日)は、キューバ共和国ハバナ州(現:アルテミサ州)バウタ出身のプロ野球選手(外野手)。
左投げ左打ち。
長い間、同世代のキューバ出身MLB選手であるホセ・アコスタの弟とされていたが、実際には無関係であることが彼の娘によって明らかにされた。
1913年6月15日にワシントン・セネタースの一員として、17歳でMLB初出場。
年間では出場機会はさほど多くはなかったが、それでも20打数6安打に2盗塁と上々の数字を記録した。
しかし翌1914年、1915年と出場試合数は増えていくものの、結果を残すことが出来なかった。
1916年にわずか5試合出場に終わると、1917年は出場機会に恵まれず、ようやくMLBの舞台に戻ってきた1918年にはシーズン途中でのトレードが待っていた。
移籍先のフィラデルフィア・アスレチックスでは49試合に出場して打率.302を記録するなど奮闘するが、この年限りでMLBからは退いた。
その後は1928年までマイナーリーグのAA級ルイビルに所属した。
また、冬の時期は1912-1913シーズンから1924-1925シーズンまでキューバ国内リーグ”リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル”でプレーした。
1918年12月2日に外野手(中堅手)ながら無補殺の三重殺を達成するという珍記録を演出。
無死満塁から全力疾走をしてライナーを好捕、そのまま走って二塁を踏み、飛び出していた二塁走者をアウトに取り、最後は戻ろうとした一塁走者を追い掛け、タッグアウトにした。
1922-1923シーズンにはエレファンテス・デ・マリアナオの監督として、チームを創設初年でキューバリーグ優勝に導いた。
アメリカ合衆国内に初めて設立されたキューバ出身者によるマイナーリーグチーム、ハバナ・キューバンズのオーナーを務めていた。
1955年にキューバ野球殿堂入りを果たした。
1963年11月17日にフロリダ州マイアミで死去。
67歳没。
打撃面では、通算成績で四球が三振を上回り、生涯の出塁率が打率より約.100上である事から分かるように、選球眼に優れていた。

WACOCA JAPAN: People, Life, Style.