福田永将, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=788205 / CC BY SA 3.0

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#中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手
#横浜市出身の人物
#1988年生
#横浜高等学校出身の野球選手
#存命人物
福田 永将(ふくだ のぶまさ、1988年7月23日 – )は、神奈川県横浜市緑区(現:青葉区)出身のプロ野球選手(内野手、外野手、捕手)。
右投右打。
中日ドラゴンズ所属。
小1で野球を始める(このとき全国3位、鴨志田スワローズ)。
中学時代は緑中央シニアで全国優勝を果たし注目され、シニア全日本代表の4番を務めた。
中学時代(鴨志田中学)にはニューヨーク・メッツから入団テストに来てほしいと声をかけられたこともあった。
横浜高校では打撃を買われ1年春からベンチ入り。
2学年上の涌井秀章とバッテリーを組み、石川雄洋らとともに甲子園にも出場。
レギュラーであったが、まだ1年で経験も浅かったために、試合終盤の大事な場面では交代させられることが多かった。
2年春から4番打者を務めた。
2006年春の第78回選抜高等学校野球大会では1学年下の髙濱卓也、同期の佐藤賢治とクリーンナップを組み、主将として優勝を経験。
同年夏は史上初の同校2度目の「春夏連覇」が期待されたが、大阪桐蔭に6-11と大敗し、大会初日に敗退。
上記以外に同期には下水流昂、西嶋一記がいた。
特に下水流とは小学校から高校まで同じチームでプレーした。
高校通算49本塁打を放つなど評価され、ドラフト会議で中日ドラゴンズから高校生ドラフト3巡目で指名され入団。
2007年、新人の中でも打撃の評価が高く、春季キャンプでの一軍組への昇格1号となった。
落合博満監督から2007年に行われるプレ五輪に推薦された。
谷繁元信、小田幸平の次となる3番目の捕手を争うことが期待されていたが、同じ新人の捕手田中大輔の存在もあり、二軍で9試合のみの出場でノーヒットに終わった。
出場機会を増やすために首脳陣から内野手へのコンバートの指示が出され、同年オフの秋季キャンプから一塁の守備にも取り組んだ。
2008年、春季キャンプで山本昌と同部屋になる。
落合監督の指示もあり、本格的に捕手から内野手へ転向。
この年も一軍出場はなかった。
前年に同じく一軍出場のなかった堂上直倫、清水昭信、岩﨑達郎がこの年に一軍出場を果たしたため、この時点で2007年入団選手の中で唯一の一軍経験のない選手となった。
しかし、二軍では4番打者としてのスタメン出場もあり、フェニックスリーグでは石井一久から本塁打を放ち注目を浴びる。
2009年、春季キャンプで一軍に抜擢されるも初日に落合監督からノックを受け右太ももを痛め、2日目に二軍に降格。
ウエスタン・リーグの6月の月間MVPを獲得。
7月に初の一軍昇格。
7月7日、対東京ヤクルトスワローズ戦の9回に代打で出場し、押本健彦から史上49人目となるプロ初打席初本塁打を放った。
7月31日の対ヤクルト戦では、負傷退場したトニ・ブランコの代役として4番・一塁手で途中から最後まで出場。
その後は代打で好機を生かせず8月中旬に再び二軍に降格した。
2010年、オープン戦や練習試合、二軍でも4番を任せられ打率3割台を記録。
しかし一軍では15試合の出場に終わった。
2011年、開幕前から好調を維持し、右の代打として開幕一軍入り。
開幕戦から代打として出場し、4月13日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で代打としてプロ2本目のソロ本塁打を江尻慎太郎から放ち、4月15日にも阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)でまたも代打としてプロ3本目のソロ本塁打を藤川球児から放った。
しかし、その後は5打席無安打が続き二軍落ちした。
一軍に戻ったのはシーズン終盤の10月で、一年間を通しての一軍定着とはならなかったが、自身初となる日本シリーズ出場を果たした。
2012年からは小山桂司のトレード移籍に伴い、4年ぶりに捕手に再転向。
オープン戦で積極的に起用され、打撃で結果を残し三番手捕手として二年連続の開幕一軍入りを果たす。
5月5日の対横浜DeNAベイスターズ戦にて一軍で初めて捕手のポジションに就くが、同じ試合でその後にアマチュア時代を通じて自身初となる二塁手の守備に就く。
またこの試合ではシーズン1号となるソロ本塁打を放つ。
最終的に自己最多の49試合に出場し、期待された打撃面では打率.176、1本塁打と課題が残り、守備機会もこれまで通りの一塁手としての出場が主だった。
オフに内野手に再コンバートした。
2013年は右肩痛の影響で4試合の出場で2安打に留まった。
2014年も10試合の出場で3安打に留まった…

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