新5000円札の顔、津田梅子

【画像で確認】女子高等教育に生涯を捧げた津田梅子

2024年7月3日からいよいよ新紙幣の発行が開始します。古い紙幣はもちろん引き続き使えるのですが、これを機に旧札を新札にいち早く替えたくなるようなトリビアをご存じでしょうか? 

一万円札の渋沢栄一、五千円札の津田梅子、千円札の北里柴三郎という新たなお札の顔ぶれのなか、今回注目したいのは紅一点の津田梅子。64年の生涯を通じ、女性の教育に身を捧げた梅子が、1929年の没年から約100年近い時を経て「偉人」の代名詞でもあるお札の顔になるなんて、本人が知ったらおそらく腰を抜かしてしまうのでは、と思うほど、日本で女性の地位はこの100年で向上しました。そしてその一端は、何より梅子自身が担ってもいたのです。

津田梅子

■6歳にして岩倉使節団に随行しアメリカ留学

江戸末期の元治5(1864)年に生まれた津田梅子が、6歳にして岩倉使節団に随行しアメリカ留学を果たせたのは、ひとえに幕府の通訳を務めていた武士・津田仙(せん)を父にもった「お家柄」あってこそ。つまり彼女のキャリアの第一歩は、お嬢様ゆえに歩めた道でした。

女性の地位が日本よりも格段に高かったアメリカで進歩的な考えを学んだ梅子は、17歳で帰国後、20歳で華族女学校の英語教師という職を得ます。華族、つまり貴族の女性向けの学校ですから、教員といっても官僚同等の待遇。明治時代当時の小学校教員の初任給が8〜13円で、対する現在は20万1900円。これを基に当時の1円=現在の約2万円として換算すると、梅子の当時の年収420円は今でいう800万円ほど、という厚遇だったのです。

6歳にして岩倉使節団に随行しアメリカ留学

梅子はさらに翌年には教授に昇進し、年収は500円(今のお金で1000万円)にも上ったのです。実際には講演会や原稿料などの副収入もあり、生活はとても豊かだったと考えられています。

当時の日本女性が高等教育を受け、職を得るだけでも大出世ですが、梅子はこれに飽き足らず、24歳のときに再び渡米を決意。女性教育に力を入れる名門校、ブリンマー大学に留学します。そこで物理学の論文執筆などを行うかたわら、自分のあとに続く女性たちのために、日本の女性が留学するための奨学金制度をつくることを思いつきます。4年に一人留学生を出すとして、その費用は8000ドル、今で言う3億2000万円と、途方もない大金です。

その実現のために彼女がとった手段は、アメリカでの募金活動。女性教育に賛同する人々に寄付金を募り、それを銀行に預けて利息を留学費用に充てるというものでした。「日本の女性のために力を貸してほしい」と熱心に実業家や篤志家を説得して回った梅子は、わずか1年で目標額を集金するらつ腕ぶりを発揮します。

■女性のための大学設立をめざして活動!35歳のときに「女子英学塾」を開校

帰国後梅子は、日本の女性も男性と対等に社会に出られる教養を身につけてほしいと、いよいよ女性のための大学設立をめざして活動することになります。そのために必要な資金は、校舎の建設費だけでも6000ドル、今で言う2億4000万円。またしても莫大な額ではありましたが、ブリンマー大学のM・ケアリ・トマス学部長の力添えもあって国内外から資金が集まり、35歳のとき東京・麹町に「女子英学塾」を開校するまでにこぎつけます。これが現在の津田塾大学の前身にあたることは、ご存じの方も多いことでしょう。

女性のための大学設立をめざして活動!35歳のときに「女子英学塾」を開校

塾開校当初の目標は、女性にリベラルアーツ(教育教養)と専門教育の門戸を開くこと。現在の大学でいう「一般教養」と「専門学部」両方の必要性を、当時の梅子は既に見通していたのです。それに加えて注目すべきは、日本女性の教養、ひいては社会的な地位向上のためにと、梅子が恵まれた給与所得をかなぐり捨てて、女子留学生のための募金や集金に力を注いでいたこと。

お金の使い方にはその人の人柄が出るものだと言いますが、自らが恵まれた環境に甘んじず、同等の機会をあまねく女性にもたらしたい、という梅子の一念が周囲の心を動かした、という事実は現代の私たちにも感動をもたらします。

100年の時を経た今、女性が学びの機会を得るのは当時ほど難しいことではなくなりました。その教養をもとに仕事に就くこと、仕事で得たお金を自由に使うことも然り、です。でもそんな現代女性の生活も、梅子のように後進に道をつないでくれた偉大な先人たちが存在してくれたおかげ。梅子の偉大さにあやかって、「本当に大事なこと」のためにお金を使えるよう、新五千円札で顔を拝むたびに心したいものですね。

文=magbug イラスト=cocoanco

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