「オフィシャル・バンドスコア 山下達郎 / 40th Anniversary Score Book Vol.2 」ドレミ楽譜出版社

 7月25〜27日に開催されるフジロックフェスティバルに山下達郎が出演することが発表されました。多くのロックファンが盛り上がる一方で、疑問の声もあがっています。

 旧ジャニーズ事務所における故・ジャニー喜多川氏による性加害問題に関する達郎氏の過去の発言が再びクローズアップされているからです。

◆ジャニー氏性加害を「憶測」、批判するのであれば「私の音楽は不要でしょう」

 疑問の声の理由は、2023年7月9日放送の『山下達郎のサンデー・ソングブック』(TOKYO FM)の中で、喜多川氏の性加害が根拠のないウワサに基づく「憶測」だと断言したこと。

 さらには、自身と喜多川氏、そして旧ジャニーズ事務所との関係を「御恩と御縁」と称し、喜多川氏をリスペクトする姿勢を「忖度、あるいは長いものに巻かれているとそのように解釈されるのであれば、それでも構いません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう」と啖呵(たんか)まで切ってみせたことです。

 重大な人権侵害問題に対するこうした達郎氏の姿勢は当時も大きな物議をかもしましたが、今回のフジロック参戦によって、達郎氏のみならず、オファーをしたフジロック側の見識も問われる事態になっているのです。

◆ロックの精神性を体現してきたフジロック

 大前提として、山下達郎がなにか法に触れる事件を起こしたわけでも、スキャンダルに巻き込まれたわけでもありません。なので、出演すること自体には全く何の問題もありません。

 しかしながら、フジロックの歴史を踏まえると、ただ音楽を楽しむという大義名分のためだけに、このまますんなりと山下達郎を迎え入れることが良いことなのかどうか。そんなモヤモヤが残ってしまうのも事実です。

 なぜなら、フジロックには東日本大震災によって引き起こされた福島第一原発事故をきっかけに、脱原発イベント「アトミック・カフェ」を復活させたり、またYMOや加藤登紀子、斉藤和義といったミュージシャンがメッセージを発する機会を積極的に設けてきたりした歴史があるからです。

 つまり、社会問題に対する意思、政治的な態度をそのつど表明することで、“ロック”の精神性を体現してきたのですね。

◆ジャニー氏の才覚優先と言い切った達郎を看板にする意味とは?

 旧ジャニーズ事務所における性加害問題は、原発事故と同様に国際的にインパクトを与えた事件です。事実、国連の作業部会が来日して調査をするほどの事態に発展しました。

 だとすれば、フジロックとして、そうした深刻な人権侵害を「憶測」と断言し、ごたごた文句を言うやつらには“俺の音楽は不要だ”と言い切った山下達郎というミュージシャンをどのように捉えているのかを厳しく問われても仕方ないのです。

 にもかかわらず、これを単に国内の芸能ゴシップとして処理し、解決済みであるかのように“J-POPのレジェンド”として山下達郎を迎え入れることが、はたして本当にフジロック・フェスティバルの看板にふさわしい行為なのでしょうか?

 もっとも、そのような批判や指摘を受けたとしても、それでも山下達郎をうやうやしく迎え入れるというのも、それはそれでひとつのメッセージだとは言えます。

 それでも、押さえておくべき点は、達郎氏が明確な人権侵害行為はさておき、喜多川氏の芸能への才覚を優先すると言い切ったところにあります。そのような人物を、イベントの目玉としてPRすることの意味を熟慮したのかどうか。

◆フェス現場でオーディエンスはどう受け止めるか?

 故ジャニー喜多川氏が事務所所属タレントに行った性加害は、富と権力を持った年長者による問答無用の暴力行為だと言えます。

 そして、かつてフジロック・フェスティバルは、原発を推進する権力を横暴であるという明確な意思を表明しました。

 2025年のフジロック・フェスティバルは、この単純なロジックがこじれているように映ります。

 さて、フジロックファンには、この事態がどう見えているのでしょうか。

 現場にいるオーディエンスはそうした歓迎ムードに同調するのか、それとも、達郎氏の一連の言動に対して何らかのメッセージを発するのか。

 フジロック・フェスティバルは、図らずも大きな分水嶺に立たされてしまったのだと思います。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4

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