生成AI映像を背景にコラボするオーケストラと琉球芸能奏者(提供)
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琉球新報朝刊
「オーケストラを日本でやる意味はなにか? まだその文化が根付いているとは言い難い状況に対し、さまざまな角度からオーケストラに触れてもらうための試み」であると、舞台上で落合陽一氏が話した。2月23日に那覇文化芸術劇場なはーと大劇場で開催された日本フィルハーモニー交響楽団が主催・企画する公演でのことだ。
ホールに入り着席して舞台を見ると、琉球芸能の奏者のために中央に敷かれた緋毛氈(ひもうせん)が少しよれていた。幕開けは琉球古典音楽「こてい節」、琉球舞踊「本貫花」より《金武節》《白瀬走川節》が県立芸大琉球芸能専攻の学生と教員によって演奏された。女声と男声3人ずつの混声のために調整されたキーで、落ち着きと清潔感を持った声が大劇場によく響く。
続くウェーバー作曲のクラリネット五重奏曲からの抜粋は、日フィルメンバーが生き生きと陰影を感じさせる演奏で、佐渡島は畑野の鬼太鼓へとバトンをつないだ。ここでこの鬼太鼓は本来、奉納や祭りで演じられるものだとわかり、この舞台をつなぐコンセプトはなんだろう?という問いが改めて湧いた。全ての演目に映像演出をした落合氏の映像も、コンセプトの異なる三つの団体をつなぐものではなさそうだ。
後半は藤倉大氏作曲の「Open Leaves」と「Demon Dance」がそれぞれ琉球芸能、鬼太鼓とオーケストラのコラボで演奏された。ほぼオリジナルで演じられる芸能を核に、オケパートは偶然性を持ちつつもプランされた音色を奏でるというスタイル。ここは映像も相まってむしろ狙いにきているとも感じ、肩透かし感がなくもなかった。
後日、落合氏のSNSでこの公演の映像をAI生成するために「こてい節」の歴史を調べたという投稿を読んだ。この作品は格式高く、場を清める役割も担っていたとある。しかし生成された映像からは、そうした雰囲気を感じ取れなかった。
むしろ、その雰囲気を感じさせる演奏をした奏者たちが、直敷きのよれた毛氈に座し、作品の余韻を残して厳かに舞台をはける際には、次のオケメンバーの音出しが袖からしっかりとした音量で漏れてくる状況に、コンセプトの欠如からくる不作法を感じたのは私だけではなかったようである。
奉納や祭りの場で演じられているはずの鬼太鼓を舞台に連れ出す意味は?ということも同じで、作法(さほう)が異なることへの敬意を感じることができなかったということは、総じて演目や演者の本来の意味に対しても敬意が欠けていなかったか、と思わざるを得ない。
本公演を届けたい相手は誰だったのか。「日本でオーケストラをやる意味」を問うのであれば、誰よりもオーケストラ自身が考え抜かねばならないと私は思う。(ビューロー・ダンケ代表、フルート奏者)