浜田雅功・松本人志
「ダウンタウン」の漫才をお楽しみください。

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【残しておきたい昭和の演芸】

【懐かしい昭和の演芸】

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#懐かしい昭和の演芸 #漫才 #ダウンタウン

ダウンタウン
1. https://youtu.be/66B6wTXrJxY
2. https://youtu.be/_Y-tonEdsnY
3. https://youtu.be/TX3JBjOffTg
4. https://youtu.be/kQMNYn0VLmA
5. https://youtu.be/L5jCgkJWSHY
6. https://youtu.be/23fHbes4deU
7. https://youtu.be/zEQ-APUullc
8. https://youtu.be/EIWAcT8U8p4

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浜田 雅功(1963年5月11日)
松本 人志(1963年9月8日)
 
1982年にコンビ結成、NSC大阪校の1期生として入学した。1987年、帯番組『4時ですよーだ』で大きく注目を集め関西でアイドル的な人気を博す。1988年、『夢で逢えたら』で東京へ進出。1989年に『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』、1991年に『ダウンタウンのごっつええ感じ』、1993年に『ダウンタウンDX』、1994年に『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が放送開始し全国的に人気を獲得。コンビ活動の他に浜田は俳優・歌手・司会者、松本はライブ・ビデオ・作家・映画監督などソロ活動も活発に行った。『ガキの使いやあらへんで!』『ダウンタウンDX』は現在も続く長寿番組である。
 
共に尼崎市立潮小学校、尼崎市立大成中学校の同級生。高校はお互い別々だったが、高校卒業後の1982年3月に浜田が吉本の開校した新人タレント養成所『吉本総合芸能学院(通称:NSC)』による1期生募集のチラシを見つけたことがきっかけで、同年4月4日にNSC1期生として入学。当時の松本は就職が決まっていたが、浜田から誘われて吉本入りを決意した。
入学わずか2ヶ月目にして、テレビ初出演となる毎日放送『素人名人会』にて名人賞を獲得。その1ヵ月後には『第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール』で福笑い大賞を受賞。これらの功績が認められ、NSC在学生では異例の早さで「なんば花月」の公演へ5日間ではあるが特別出演した。
8月、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』の素人・アマチュア芸人の勝ち抜けコーナー「お笑い君こそスターだ!」へ「まさし・ひとし」として出場、5週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった。番組内ではNSC在学生ということは伏せられ、素人としての出演だった。
劇場で舞台を踏みながら『第13回NHK上方漫才コンテスト』や『第4回ABC漫才・落語新人コンクール』へ出場。
1983年4月21日、阪急ファイブ8F・オレンジルームで同期のハイヒール、銀次・政二と共にコントライブ「ごんたくれ」(全3回)の第1回公演を開催。後の心斎橋筋2丁目劇場による笑いの原型を開拓させたイベントであった。
「松本・浜田」「まさし・ひとし」「青空てるお・はるお」「ライト兄弟」「まさと&ひとし」などコンビ名を定着させずに活動していたが、同年5月にコンビ名を現在の「ダウンタウン」へと改めた。同年6月6日になんば花月上席初出演を果たす。
コンビ名の由来について松本は「考え過ぎるのやめようって。どこかの喫茶店で、週刊誌をペラペラッとやって、指で押さえたところをコンビ名にしようぜってなったんですよ。それがダウンタウンだったんです」と語っている。
1984年、『第14回NHK上方漫才コンテスト』で優秀賞を受賞。『第5回ABC漫才・落語新人コンクール』では最優秀新人賞を受賞した。
 
漫才のネタはコント漫才が多く、代表的なネタとしては「誘拐」「医者」「クイズ」「『あ』研究家」などがある。
松本のボソボソと喋るボケに浜田のいなすようなツッコミが特徴で、漫才ブームの頃はハイテンポなしゃべりが主流だったためゆっくりなテンポで間を空けた漫才スタイルは異質で、横山やすしからは「チンピラの立ち話」と酷評された。
『ダウンタウンのごっつええ感じ』でコントに注力するようになってからは、ダウンタウンとしての漫才はビデオ『ダウンタウンの流』を最後に演じていなかったが、2022年4月に開催された「伝説の一日」千穐楽参回目の大トリにおいて、約31年ぶりの漫才を披露している。
 
島田紳助は紳助・竜介時代、NSCでダウンタウンの漫才を見た時の衝撃は忘れられないと語っている。漫才ブームの頃は速いテンポの漫才が多かったが、ダウンタウンの漫才は遅いテンポだったため松本に「このテンポはどうするんや」と尋ねると、「いや、俺らはこのテンポ変えるつもりはありません。このままでいきます」と返されて後に紳助はダウンタウンの漫才の方向性が正しかったことに衝撃を受けた。また、紳助・竜介が解散するきっかけとなったコンビがダウンタウンであり、1985年5月にうめだ花月上席の舞台袖でダウンタウンの漫才を目にしたことで自分達の限界を感じ、吉本興業本社に出向きコンビ解散の意思を告げた。同年5月20日に行われた記者会見で紳助は、解散理由について「阪神・巨人やサブロー・シロー、ダウンタウンには勝てない」と、当時まだ無名であったダウンタウンの名前を挙げた。
ビートたけしは、松本との対談でダウンタウンの漫才について「(ツービートの漫才は)あの当時としては新しいことをやってたんだけど、かなり荒いんだよね。その時代のあとに出てきたダウンタウンはもっときめ細かい。おいらの2、4、6、8というネタの切り取り方が、1、2、3、4でとってきたという感じ。乗った時は0.1とか0.2の刻みでとり出したという感じがある。スピード的には2、4、6と飛んでいくから、B&Bとかおいらの漫才のほうが早いんだけど、ダウンタウンは0.1をじっくりもたせちゃうというところがある。おいらの5分ネタを30分ぐらいやれる細かさで、その感じをよくわからせたのがダウンタウンの漫才だ。それは進化だと思う」と評した。
宮川大助(宮川大助・花子)は、医者の漫才で「衛星ひまわりから撮ったレントゲン写真です」というボケを聞いた際に「あ、負けたなと。そんなの想像できひんなと思った」と当時の衝撃を語り、「時代が変わる」と感じたと振り返っている。
 
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11 Comments

  1. 松ちゃん「まさお君はガンです」
    浜ちゃん「え?」
    松ちゃん「笑うでしょ?」←これがアドリブだったのか、
    浜ちゃん「今、意表突かれて」と思わず応えていますね。

  2. 今でも若手はたくさんいるけど、若手の頃から所属会社のトップを平気でこき下ろしていたのはダウンタウンぐらいだったな。

  3. 観客席の笑い声が入っていなかったら多分1回ぐらいしか笑うとこなかったと思う。
    笑いは進化してるんだなと実感。

  4. 懐かしい。
    当時はこんな展開の漫才、全くなかったから、意表をつかれて笑うって感じでした。凄く斬新で、面白かった。子ども心に、この二人はずば抜けてるって思ってました。

  5. これがいくつぐらいで、どれくらいの知名度があった頃なのか知らないが、リアルタイムで尼崎のチンピラ二人がスターとして成り上がっていく様を見てみたかった。