少年は“鋼の男たち”に心打たれた ラグビー 日和佐篤選手



「倒れても、倒れても、立ち上がる姿に、心を打たれた」

阪神・淡路大震災の当時、7歳の少年の記憶に刻まれたのは、神戸製鋼ラグビー部(現・コベルコ神戸スティーラーズ)の選手たちでした。

少年はいま、彼らと同じチームで戦っています。

“復興の象徴”と言われた神戸製鋼。

そして、ラガーマンたちに受け継がれてきた思いとは。

(大阪放送局記者 山崎航)



震災から30年 思い込めたジャージで臨む
1月19日。

コベルコ神戸スティーラーズの選手たちは、この日かぎりの特別なジャージを身につけ、試合に臨みました。

「神戸ルミナリエ」をイメージした光と、“1.17”の文字。

阪神・淡路大震災から30年がたち、かつての被害を忘れてはならないという思いが込められています。

この試合にスタメン出場した、日和佐篤選手(37)。

神戸市出身のスクラムハーフで、日本代表としてワールドカップに2大会出場したベテランです。

日和佐選手
「“倒れても倒れても、何度でも立ち上がる”、それがラグビーだと思っている。復興のシンボルとして戦ってきた神戸製鋼の先輩たちの思いも背負いながらプレーしたい」

変わり果てた練習場 日常が一変
5歳でラグビーを始めた日和佐選手。

ラグビースクールでグラウンドを借りていた神戸製鋼は身近な存在でした。

震災が起こったのは、小学1年生のとき。

自宅や家族に大きな被害はありませんでしたが、神戸製鋼の練習場の変わり果てた姿を見たとき、大きな衝撃を受けました。

グラウンドはひび割れ、液状化が起こり、泥だらけ。

周囲から運び込まれてきたがれきが積み上げられていました。

「大変な状況になった」

日常が一変する恐ろしさを、幼心に感じたと言います。

そんな日和佐選手を勇気づけたのは、神戸製鋼ラグビー部が逆境の中で見せた姿だったのです。

日和佐少年が見た“鋼の男たち”
当時の神戸製鋼は圧倒的な強さを誇っていました。

「ミスターラグビー」と呼ばれた日本代表元監督の平尾誠二さん。

1メートル90センチの体格で、「世界選抜」にも選ばれた大八木淳史さんなど、日本のラグビー界をけん引したスター選手が名を連ね、スティーラーズ=鋼の男たちの愛称で親しまれていました。

震災が起こったのは、神戸製鋼が日本選手権最多タイとなる7連覇を達成したわずか2日後のことでした。

チームが受けたダメージは深刻でした。

日和佐少年が目にした、グラウンドの惨状だけではありません。

神戸市の本社は全壊、会社の被害はおよそ1000億円、社員3人が犠牲になりました。

選手たちは倒壊した家屋に閉じ込められた周囲の人々を救助し、次々に届く支援物資を運ぶなど、復興のために力を尽くしたといいます。

「ラグビーどころではないのではないか」

社内でもそうした声が上がる中、会社はラグビー部の活動継続を決断。

グラウンドをみずからの手で整備したり、県外に練習ができる場所を求めたりして、厳しい環境の中、再建へ歩みを進めました。

そして10月に関西社会人リーグ、12月には社会人大会にも出場しました。

「傷ついた神戸を勇気づけたい」

その思いを胸にプレーする選手たちの姿は、日和佐選手の心に強烈に残っているといいます。

日和佐選手
「本当に逆境というか、大変な中で練習もして、支援もして、会社のためにも働いて、過酷な中で立ち上がった選手たちは本当に素晴らしいなと感じました。感動というか、心揺さぶられるものがありました」

受け継いだ思いをつないでいく
その後、日本を代表する選手へと成長した日和佐選手。

2018年に神戸製鋼へと移籍し、かつて勇気をもらった選手たちと同じジャージを着ることになりました。

心には「被災地の復興の力になりたい」という思いがいつもあったといいます。

5年前からは、チームメートと一緒に、毎年1月17日にインターネットに動画を投稿し、震災の記憶を伝えていくためのメッセージを発信しています。

「神戸製鋼は復興の象徴でした。当時、感動というか奮い立つものがありました。そういったエネルギーを発信できたらと思っています」(ことし日和佐選手が発信したメッセージ)

小学6年生の長女・瞳さんにも震災当時のことを話すようになりました。

去年12月には、かつて液状化したグラウンドを2人で訪れました。

日和佐選手
「兵庫県ラグビースクールの練習でこのグラウンド使わせてもらった時、がれきがそこのテニスコートから駐車場までわーっと。全部がれきやった」

瞳さん
「どんながれきが?」

日和佐選手
「地震で神戸の街の家が壊れたから、そのがれきを集めてスペースに置いていたんよ」

瞳さん
「神戸製鋼の選手たちは、ここで変わりなく練習できていたの?」

日和佐選手
「どうかな。地震が起きる2日前に神戸製鋼が日本選手権で7連覇したやん。その後、地震が起きて『頑張ろう、神戸』と。神戸の街全体で、震災を乗り越えましょうよと。神戸製鋼は練習場がぐちゃぐちゃになっちゃったから8連覇は厳しかったけど、勇気をもらったよ」

かつて心を打たれた男たちの物語。

今度は自分がその姿を見せる役割を担っていると、日和佐選手は考えていました。

1.17を刻んだ試合 限界まで走り続ける
そして迎えた1月19日。

神戸市で行われた浦安D-Rocksとのホーム戦にはおよそ9000人のファンが集まりました。

あるファンの言葉は神戸の人たちの思いを代弁していたように思います。

「震災が起こったあと、神戸製鋼にみんな力をもらっていた。彼らがすごく頑張ってくれていることが、まさに“復興”だと思います」

試合はスティーラーズの流れでした。

司令塔の日和佐選手が精度の高いパスで攻撃の起点となり、次々にトライが生まれました。

「1.17やぞ。負けるな」

スタンドからはそんな声も聞かれました。

しかし終盤、日和佐選手が足を引きずり始めます。

運動量のひときわ多いスクラムハーフ、そして激しいプレーの応酬で、足をつっていたのです。

それでも、日和佐選手は交代することはありませんでした。

日和佐選手
「スポーツ選手としてはおじいちゃんと言われる年齢になったけれど、必死になって勝ちを貪欲に探していた」

37歳のラガーマンは最後まで足を止めませんでした。

そしてスティーラーズは50対22で勝ち、大声援に応えたのです。

この日が公式戦通算150試合目となった日和佐選手には試合後、瞳さんから花束が送られました。

節目の今シーズン、目指すのは6シーズンぶりとなる優勝。

“復興の象徴”として受け継がれてきた思いをつないでいくため、力のかぎり闘い続けます。

日和佐選手
「30年という長い月日がたって、街はなおっても、人の心は治るものではないと思う。それでも、やっぱり前を向いて立ち上がらないといけない。復興、それだけではなくてもうひと段階、飛躍していけるように、神戸の街から、そして僕たちから盛り上げていきたい」

取材後記
私(山崎)は入局後、多くの災害現場を取材してきました。

2016年の熊本地震や2019年東日本台風、2021年の静岡県熱海市での土石流。

その中でいつも感じていたのは、復興に向けて歩む人たちの「心のエネルギー」です。

そのエネルギーの源になるものの1つがスポーツだと、私は信じています。

今回の取材の中で、日和佐選手がこんな風に話していました。

「スポーツは別に日常に無くても困らない。でも心のどこかにあったらうれしい。そういうものだと思っています。私が被災地に何かを届けられるとするなら、ラグビーをするしかないと思います」

何かに立ち向かう姿が、きっと誰かの心に届く。

かつて日和佐少年の心に火をともしたように。

“鋼の男たち”の魂に触れ、改めてそう感じました。

大阪放送局記者
山崎航
2015年入局 東京出身
秋田、静岡を経て、2023年から大阪勤務
震災当時、兵庫県芦屋市在住だった妻は一時母方の実家の愛媛へ避難娘とともに妻から震災のことを学ぶ

WACOCA: People, Life, Style.