「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げ、未来社会の実験場をコンセプトにした大阪・関西万博。その開幕まで1カ月を切った。四方を海に囲まれたロケーションを持つ大阪湾岸の夢洲で2025年4月13日(日)~から10月13日(月)までの184日間にわたって開催される。

現実として手に入った半世紀前の体験

 ある程度以上の年代にとって、万博的なイベントは重度のカルチャーショックを身をもって体験できた貴重な場だったと思う。個人的にも1970年の大阪万博と1985年のつくば科学万博が強烈な印象として残っている。

 前者には未来を夢みる好奇心旺盛な子どもとして、後者には将来のビジネスチャンスを手にしたいと願う、要するに下心のある大人として足繁く会場に通った。今から思い起こせば、この2つの万博はたった15年間しか離れていないのだが、双方ともに大きな意味を持つ博覧会として強い印象を残しているし、双方でまったく異なる次元での当たり前を目の当たりにできた。つくづく運のいい世代だと自分で自分のことを思う。

 日本での国際博覧会はほかにも沖縄海洋博(1975)や大阪花の万博(1990)、愛知万博(2005)などがあったが、認知度、盛り上がり度という点ではやはり大阪と筑波の2つの万博だろう。

 そして前者の大阪万博の55年後となる今年、再び大阪の地で万博が開催されようとしている。高度経済成長期も終わりに近い時期、成熟しつつもあった時期に開催された前の大阪万博とは違い、いろいろと複雑な社会情勢のまっただ中での開催だ。

 その開幕1カ月前のタイミングで、大阪・関西万博 未来の都市 完成記念式典・プレスプレビューの案内が届いた。今回の万博では、未来社会ショーケースとしてスマートモビリティ、デジタル、バーチャル、アート、グリーン、フューチャーライフという6つのカテゴリの万博が併催される。そして、これらはリアルな万博に加え、バーチャル万博も開催される。

 その1つ、フューチャーライフ万博は、リアル会場に加えてバーチャル空間を使ってSociety 5.0が実現する未来社会を多様な「共創」によって創り上げるというものだ。そして、その明日を経験できる舞台としてのリアルなパビリオンが「未来の都市」だ。

 建て付けがかなりややこしいが、このパビリオンは、公益社団法人2025年日本国際博覧会協会が推進する「未来社会ショーケース事業」の一環として、博覧会協会と協賛12者によって未来の都市像をともに考え、描いていく。協賛12者のうち、株式会社日立製作所、KDDI 株式会社、株式会社クボタはそのプラチナパートナーとして参加している。今回は、その「未来の都市」パビリオンの完成内覧会を視察することができた。

リアルとバーチャルの両方で披露される未来の都市

 KDDIは大阪の夢洲会場にあるパビリオンでの未来の都市展示以外に、会期中、メタバース上に「バーチャル未来の都市」を提供する。KDDIにおけるバーチャル未来の都市プロジェクト全体の統括責任者である舘林俊平氏(KDDI 事業創造本部 Web3推進部)は言う。

 「理想の未来だなんて、そんな都合のいい未来はそうそうやってくるものではありません。だからこそ、協賛各社で巨大な地図を取り囲み、10年後にいかにもありそうな都市空間を架空の街として都市計画していく作業から始めました。それが未来の形です。それをめざして何をどのように変えていけるかを考えて、それに必要な要素を実装していきました」。

 普通に想像する未来都市が、何もない空間にいきなり出現するものであるとすれば、10年後の未来都市は、都市として機能しながら進化していくものだと舘林氏は言う。この話を聞いて、まるで今の東京・渋谷や新宿のようだなと思ったりもしたし、大阪なら、梅田スカイビルのある梅田北側エリアにも通じるイメージがある。

 近未来、つまり、手が届きそうな未来なのだ。そういう意味では夢物語ではなく現実的でもある。どうもリアルとバーチャルの境目が曖昧になりつつあるようだ。それが夢うつつということなのかもしれない。

そこにあるのは展覧会ではなく博覧会

 完成したパビリオン内を順路に沿って各種の展示を見てきた。これならバーチャルだけでも十分に伝わるんじゃないかと思ったりもした。だが、それは、広大な会場内にあるほかのリアルなパビリオン群と、この「未来の都市」パビリオンのコンセプトにおける特徴的な違いだと思えば納得できる。

 そして、そこにある未来の都市パビリオンが、胸躍りときめくバラ色の未来へのポインタであるとは限らないというところに、1970年の大阪万博や1985年の筑波博との違いを感じる。危機感へのポインタの存在も決して希薄ではないからだ。

 55年前、確か、カナダのパビリオンでメープルリーフのピンバッジをもらい、覚えたての英語でお礼の言葉を言ったら、バッジをくれたコンパニオンの女性に「エイゴ、ジョウズデスネ」と言われたことを今も鮮明に覚えている。ちょっとしたカルチャーショックを受けながら、動く歩道を使って帰途についた。楽しかったという思い出しかない。その動く歩道は、その後の半世紀の間に、どこにでも見かける当たり前のインフラとなって未来をかなえた。携帯電話などもこの万博で初めて見たデバイスだ。

 大阪万博のみどり館ではアストロラマと呼ばれる驚異的な映像体験が披露され、今もしっかりと当時の光景が目に焼き付いている。エピローグ近くで日光いろは坂を下る映像では、つづれ折れのカーブで目の錯覚を起こし、足下がふらつき床の上に立っているのがやっとだったことも鮮明な体験として脳裏に残っている。

 IMAXも大阪万博でデビューした。富士グループ・パビリオンでの上映で、個人的にはこちらは体験し損なったつもりでいるが、今、資料を読み解くとコンテンツのおもしろさを感じることができず印象に残っていないだけかもしれない。

 今は、耳につけていれば相手の喋る外国語が日本語になって聞こえる自動翻訳イヤフォンなども、普通に使えるようになっている。その精度も飛躍的に向上している。それが半世紀を超える時の流れだ。

 当時、アメリカのパビリオンでは月の石を見ることができた。ソ連のパビリオンでは宇宙船「ソユーズ」の実物が展示されていた。個人的にも両方をしっかり見た記憶が残っている。人だかりの中で遠くからではあったが確かに見た。そして50年もたてば、民間人が普通に月と地球を往来するくらいな状況になっているんじゃないかと想像もした。

 この記事を書いていて、当時のことをいろいろ調べたら、ソ連館にも月の石が展示されていてそれを見たという自分の記憶が間違っていたことに気がついた。ソ連館に展示されていたのは月の石ではなく、月に行った宇宙船だったのだ。そしてそのソユーズは改良を重ねながら、今も国際宇宙ステーションと地球を往復しているそうだ。

あたかもそこにある確からしい未来

 今から思えば、あの頃は、本当に夢をうつつにすることができることが信じられるいい時代だったと思う。人任せで待っていればすごいことが起こる期待値も高かったんじゃないか。

 1970年万博の6年前、1964年の東京オリンピックはの記憶がほとんど残っていない。TVに映るマラソンランナー、エチオピアの裸足のランナーアベベの姿がかすかに目に浮かぶくらいだが、もしかしたら、ずっとあとになって記録映像を見たものをリアルタイムで見たと勘違いしているのかもしれない。金メダルをとった東洋の魔女についてもまるで覚えがない。

 その次の東京オリンピックは2020年だったが、コロナ禍がその盛り上がりに水を差した。申し込んだチケットは1枚も当たらなかったので、普通に開催されていても試合を見に行くことはできなかっただろうけれど、ちょっと残念だ。

 でも、大阪万博は帰ってきた。シンがついて戻ってきた。あまり興味はなかったのだが、未来の都市を見せてもらって、ほかのパビリオンもちょっとのぞいてみたくなった。確からしい未来を探しにでかけてみるか……。

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