蔦重とゆかりの人々
蔦重とゆかりの人々(11)
2025.3.17(月)
鷹橋 忍
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《当時三美⼈》寛政5年(1793)左は高島屋おひさ、上は富本豊雛、右は難波屋おきた
(鷹橋忍:ライター)
今回は、大河ドラマ第11回『富本、仁義の馬面』に登場した、寛一郎が演じる富本節の人気太夫・富本豊志太夫(富本午之助/第12回より富本豊前太夫/ここでは富本午之助で統一)を取り上げたい。
富本節とは
富本午之助は、宝暦4年(1754年)に生まれた。
寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より、4歳年下となる。
父は、富本節の初代・富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)だ。
富本節とは、三味線の伴奏による語り物(筋のある物語を節をつけて語る芸能)音楽の一種である「浄瑠璃」の流派の一つである。
午之助の父・富本豊前掾は、本名は福田弾司、初名は宮古路品太夫、前名は宮古路小文字太夫、常磐津小文字太夫というが(早稲田大学演劇博物館編『演劇百科大事典 第4巻』)、ここでは「富本豊前掾」の表記で統一する。
富本豊前掾は、豊後節の始祖・宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の門下とされる(中内蝶二 田村西男編『日本音曲全集 第9巻(富本及新内全集)』 )。
豊後節が禁止された後に、同門の文字太夫が延享4年(1747)に独立して「常磐津節(ときわずぶし)」を創始すると、傘下に入り、初代・常磐津小文字太夫となったという(富澤慶秀・藤田洋監修『最新歌舞伎大事典』)。
しかし、富本豊前掾は寛延元年(1748)に常磐津節から分派し、富本節を樹立。当初は富本豊志太夫を名乗っていたが、翌年に受領し、富本豊前掾を称した(服部竜太郎『日本音楽史 伝統音楽の系譜』)。
富本節は重々しくなく、詞章も難解ではなく、節回しは艶があり、曲調も華やかであったという(武田製版所八十周年記念史編纂委員会編『武田製版所八十周年記念史』所収「添章 富久田家(富本)の系譜」)。
宝暦10年(1760)には、再び受領して筑前掾となり、名声が高まるも、一般には「富本豊前掾」として知られている。
富本豊前掾は、明和元年(1764)10月22日、49歳で没した。
豊前掾は「豊前太夫」を名乗った記録はないが、彼の実子・富本午之助が「二代目・豊前太夫」と称したため、「初代・豊前太夫」に数えられることが多い。
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