2001年から2004年にかけて撮影した小田急線の動画です。これまでアップロードしてきたもののうち、特に退役した通勤車両が多く収録されたものを抜粋し、まとめました。この時代と今で異なる点を以下に示しておきます。

【特急列車の体制】
当時の特急列車は基本的に、箱根直通が30分おき、新宿を毎時00,30分に発車していました。それに加え、途中駅停車タイプのサポート号が新宿を毎時10分に発車し、あさぎり号や臨時便が40分発に入る具合でした。えのしま号は、大半が新宿~相模大野において、サポート号と併結運転を行っていました。

今のように最終目的地で愛称が決められるわけではなく、サポート号も箱根湯本まで乗り入れていました。停車駅は、はこね号が町田・小田原、サポート号が3パターンあり、①町田・本厚木・小田原、②新百合ヶ丘・相模大野・本厚木・秦野・小田原、③向ヶ丘遊園・町田・本厚木・新松田・小田原、となっていました。

【一般優等列車の体制】
現在の優等列車は昼間時ダイヤをベースにすると、快速急行・急行が6本ずつ、10分おきに運転されることが基本となっていますが、当時は、急行(江ノ島線直通は湘南急行:小田原線内停車駅は急行同じ)6本に多摩急行2本が千代田線から加わる8本のみの体制でした。多摩急行は江ノ島線系統の急行・湘南急行と続行運転していましたので、基本的に「急行は毎時6本、10分間隔」でした。

そのため、近郊区間における急行の混雑は時間帯を問わず激しいものでした。今は成城学園前や経堂に空いている急行が発着していますが、当時(当時は経堂通過)からすれば考えられないことでした。登戸を境に急行と快速急行がうまく役割分担することになり、当時を知る身としては、相当に利便性が向上したように感じます。

途中駅からの折り返し列車は江ノ島線に設定されていました。基本的に日中の町田~藤沢・片瀬江ノ島に設定されていました。小田原線には区間運転の急行はほとんどなく、したがって、相模大野以遠の急行は毎時4本でした。本厚木から先は毎時2本、新宿発の各駅停車が新松田まで運転され、毎時6本が確保されていました。

分割併合は相模大野と新松田で頻繁に実施されていました。まず、江ノ島線ですが、湘南急行は10両編成であるもの、急行の一部に江ノ島線内を6両編成で運転する列車が残されていました。それらは相模大野で新宿寄り4両を切り離していました。切り離された4両は相模大野に入庫するか、後続の各駅停車として藤沢や片瀬江ノ島まで運転されました。

新松田での分割はほとんどの小田原線系統の急行で実施され、新宿寄り4両は新松田どまりになるか、各駅停車として小田原や箱根湯本まで運転されていました。当時はまだ急行も箱根湯本まで乗り入れていました。

【各駅停車の運行体制】
近郊区間(新宿ー向ヶ丘遊園)では毎時8本設定されていました。2003年には向ヶ丘遊園どまりの各駅停車が多摩線の唐木田まで延長され、新百合ヶ丘まで毎時8本運転でした。これが後の区間準急に役割を譲ることになった列車でした。

6両編成の各駅停車がまだまだ多く、それゆえ、江ノ島線への直通列車も少なからず設定されていました。

#小田急線#小田急#odakyu#昔の小田急線
#小田急2600形#小田急4000形#小田急5000形#小田急9000形 #小田急#UC1KmDhiCc_2mtb2G4rYgfNw#昔の小田急線

WACOCA: People, Life, Style.