保月集落について: https://historica-web.com/village/%e4%bf%9d%e6%9c%88%e9%9b%86%e8%90%bd/

今回は滋賀県にある保月集落を訪れました。

かつては宿場町として栄えたこの場所も現在は、家屋も殆ど無くなりガランとした光景となっています。

資料でこの集落の昔を知れば知るほど、これほどまでに栄えた場所が数十年の間に廃村にまでなってしまうものかと、時の流れの無常さを感じました。

国が近代化し、便利な世の中になればなるほどこのような山間集落での暮らしは消えていきました。

現代の我々は、ただ集落の当時の姿に想いを馳せることしかできません。

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◎お勧め動画はこちら

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チャプター
0:00 開始早々足止めされる
1:12 落石により車で進入不可能、徒歩に切り替える
5:12 ようやく集落に到着
5:57 保月集落に着いて
6:42 保月集落を探索
8:24 住民の方にお話を伺う①
8:58 保月集落の歴史
11:20 住民の方にお話を伺う②
13:02 廃村の窃盗被害について考える
14:18 探索を続行、神社を参拝
15:39 小学校跡地を発見
16:25 集落の聖地「地蔵杉」
17:32 地蔵杉について
19:03 本日3回目のお賽銭
19:38 取材終了

#廃村探訪 #廃村 #廃墟

45 Comments

  1. この神社は今でもきちんと管理されているようですね。廃神社には見えないです。

  2. 貴重な映像をありがとうございます。1979年、大学の研修で、農林省愛知川農業土木事業所で、バイトしてたことがあり、休日に永源寺ダムの奥をサイクリングしたとき、やはり廃村があり、そこから山道を降りたところに、同じ名前の集落があり、「ああ、集団で降りたのか。。」と思ったことがあります。のちに関西に就職し、1984年に、クルマで石樽峠を越えて三重県側に向かったとき、永源寺の奥の駐在所で、GSを尋ね、教えてもらったところにいくと、一見普通の農家の納屋から老婆が手回し給油機を引っ張って出てきて「はい、5リッター、お入れさせていただきます」と、手回しで入れてもらったことがありました(あまりの異様さに、怖くなって峠の向こうまでの量でたのみましたw)。昭和40年頃には、町から消えた機械でしたw そのとき、茅葺屋根の吹き替えをやってて、写真撮ってると、出演料よこせw と冗談ともマジともとれることを言われたのを思い出しましたw 懐かしい風景でした。

  3. 神社にお参りをして「願い事が叶いそうですか」に対して「自分次第です」
    こんな良い答え。感動ものです。

  4. 田舎のこういう道に行くと道路上に落石注意の標識を見かけます。「いや、落ちてきたら気を付けられるか?w」と思って
    見てました。

  5. はじめてコメントさせていただきます。
    10年ほど前に地元の方の案内で訪問したことがあります。その時は河内の風穴の奥から上がり、杉峠から降りました。映像を見た感じ、河内の風穴側から上がったのでしょうか?
    私が行った時と同様にきれいに手入れされており、映像を見た瞬間にどこなのか分かるレベルで維持されていることに驚きました。
    学校の先生は今でいう単身赴任のような形だったそうで、すでに潰れかかっていましたが赴任した先生方が住んでいた宿舎跡などを案内してもらいました。その時も空き巣が多いと伺ったほか、森の方はヒルが多いので奥に行かないように言われたのを覚えています。
    廃村になった理由は映像で紹介されていた通りなのですが、その他の理由として雪の多さがあったそうです。関ケ原に近く豪雪地帯で冬になる度に孤立していたらしいのですが、昭和30~40年代に続けて大雪が降ったことがきっかけで多くの方が集落を離れたそうです。最後までおばあさんが残っていたらしいのですが、冬場に何かあっても助けに行くことができないことからご家族に説得され集落を離れ、住民がいなくなったとのことでした。
    以上、長々と失礼いたしました。

  6. 15分39秒辺り左の窓に人が動くような感じがあるけど誰かいたんですか?

  7. 最近見るようになりました。窃盗団の話しは残念です。日本人じゃないですよ。廃村とは、日本の大切な文化の姿を今に残す貴重なものです。言うならば、国宝です。大切に守りましょう。ご活躍に感謝します。

  8. これからは増えるかしら、地元もごまんとは言わな無いと言いたいんだけどさ、他人事じゃないです

  9. 過去に六百人も暮らしていた集落か・・・・。
    全部、買い取って
    大規模な農地か牧場にでもすれば生計が立てられそうだ。
    何て、ことを夢見たりする。
    まあ、先立つ金が無い人間が言っても、仕方がない事ですが

  10. 地元民が車で来てたけど、別ルートは車が通れるのかな?

  11. 賽銭入れるのは丁寧で良いけど、その賽銭を狙ってくる盗人が出てこないことを祈るわ

  12. ちょうどグミを食べながら動画見てたので、1人笑っちゃいました😁 因みに、マスカット味です💕

  13. 40年前から定住者ゼロでもたまに帰ってきて手入れしている元住民たちがいるのは凄いな。

  14. 車があるということは逆方向からなら普通にこれたんかな?

  15. こういう場所はオフロードバイクが向いてそう……と思ったら倒れて死んでる説((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
    30年、40年と無人とは思えないぐらい、綺麗に保存されているな。草木もやたらと茂らず、張り紙等も綺麗に残ってる。車で入って来れるルートがあったのね。
    クズの実数が多いだろう大都市圏が近いと、防犯も大変なんだろうね…。

  16. 母乳出なかったから地蔵杉にお参りに行きたかったな。行けない距離じゃ無かったから、もっともっと早くに知りたかった😭
    まぁ、ミルクで2人とも成人したからOKだな。
    母の愛も父の思いも祈れば叶うものなんだな

  17. バイクのお兄さん、えぐいですね(笑)
    安全に気をつけて取材して下さいね。

  18. 改めて来てみて、「地蔵杉」のどデカイさに驚きます。それに苔蒸す大木に敬意こめたお地蔵さんも傍にあって「美しく凛とした姿」光景ですね。トレ・ビヤン!

  19. そういうところに行くやつは、金に困っていくんじゃなくて
    職業が泥棒なんだよ
    肝試しはあるかもしれないけど

  20. 私は小さな街(一応、市だが)の外れで育ったが、少年時代は、私の地域には宿屋が多かったが殆ど営業していなかった。急激なクルマ社会への過渡期だったのだ。
    昔は、早朝に中国山地の奥に向かって宿を出発していたんだ。馬が牽く大八クルマに瀬戸の海産物を積んで中国山地の街まで運んだ後に、山の幸を積んで降りて来ていたのだ。
    交通の発達でトラックで1時間もあれば、行けるので、ついに宿屋は全部無くなった。更にバイパスが出来れば旧商店街に有った喫茶店も廃れる。祖母の実家も山奥の更に行き止まりの家だった。自給自足でなく、美味しい物を食料品スーパーで買い、そのための収入を得るには山奥は不便だ。昔のように「祭りの日だけ街の親戚を訪ねる」というワケには行かなくなった。街に下りてきた。
    寂しいが、これが発達ということか。

  21. 名古屋からバイクで鞍掛峠を越えてダート道を探して走り回ったから懐かしいが最初に行った頃は80年代で誰かが住んでいたような その後に完全と廃村となったが近年となり建物が修理されたりして昔の住民たちが夏の別荘がわりで使っている? ただ冬は除雪をしないから集落への道が閉ざされてしまうから半年間は動かないって余程の根性と覚悟がなければ冬は住めない 1964東京オリンピック〜1970大阪万博の頃に山奥で廃村した鈴鹿山脈の滋賀県側(落ち武者の末裔か?)の場所は多い

  22. この集落の全ての家屋、お宮さん、お寺も、たぶん窃盗の被害にあっているでしょうね。
    兎に角、最近、酷いですよ。古民家を見ているとか言って、窃盗目的で回っている連中がいるようなので。
    私の先祖がいた集落も廃村となって住居跡が残っていますが、みなやられています。

  23. こんな落石だらけの道よく笑いながら歩くなぁ。
    石が落ちて直撃しないのはただ運が良い瞬間が続いてるだけなのに。
    俺なら絶対歩かないな。

  24. 盗難が多いと有りましたが滋賀県の廃村は茨川集落を除けば大抵街から近く利便性も良い為残念ながら狙い安いとは思います。

  25. 私は滋賀県南部の街に住む53歳の男性です。昭和63年6月の35年前の出来事です。杉集落からの続きです。車外はガタガタ道に加えアブバチ🐝が沢山舞ってました。何とか悪路を越えると保月と思われる集落に着きました。集落右手には2階建て木造の校舎が有り隣には郵便局が有りました。既に使われて無い様子で公衆電話は外されてました。集落にはスピーカーからラジヲ放送が流れており倒壊した家も有りましたが寺は無人ながら新しく思えました。年配の男性と出会い私が来た経緯を話すと学校内に入れてくれました。しっかりした建物で昔は生徒が70人は居て杉、五僧からも通学してたそうで運動会は村の大イベントになってたとの事。教室には木の机椅子が有り清潔に保たれて居ました。2階の黒板には「廃校を嘆く昭和53年卒業生」と書かれてました。今は生徒も教師も居ないが昔の卒業生なんかが時折来ては清潔を保ってくれてるそうでした。男性は昭和の始め迄は「北村屋」と言う旅館が経営され多賀大社や伊勢神宮へ行く人の往来がとても賑やかで婦人会がおにぎりや餅を道端で売っていたそうです。今は6軒11名の老人しか住まなくなり賑やかだった頃を懐かしんで居られました。家は薪を焚いて家事、風呂を沸かして生活してるそうです。保月には村以外の集落に抜ける山道も沢山通っており近在のハブ拠点だったそうです。五僧峠を尋ねたら「倉庫脇に獣道が有るから歩きで登る 今は誰も居らんよ」と教えて貰い保月集落を後にしました。
    【五僧峠】
    車を東に進めると下りになり左側は景色が良かったです。川に掛る橋を渡ると車両用のガレージらしき物が有り右手に微かに獣道が延びており車を捨てて徒歩で進みました。水分補給とパンをかじりつつ割としっかりした土道を歩むと家屋が現れました。家は4軒有りその他にも納屋、厠など有りましたが家屋2軒は倒壊してました。2 軒は健在で住んでるような気配が有りました。更に登り10分程で峠の頂上に至りました。鉄看板が有り五僧峠と島津の五僧越えについて記してました。向こうは岐阜県上石津町。少し進みましたが急坂で滑ってしまい危険なんで滋賀県側に戻りました。無人の筈の五僧なのに一家の玄関が開いていて中から60歳位の男性が出て来ました。五僧に来た経緯を話し杉、保月の事も伝えたら男性も「ワシの生家で去年迄母親が1人で暮していて今は町にて一緒に暮らしとる」たまに家や家屋を整理して敷地の整理をしに来てるそうです。来月(7月)に鹿児島から子供達が峠越えしに来るから庭と縁側を休み場にするので準備してるそうでした。帰りは保月集落には戻らんと川沿いを下れば安全な道に出ると教えて貰いつつ足、首にいつの間にか貼り付いた「吸血蛭」を何匹も退治して暮れました。この時に撮った写真や見た事聞いた事を記したノートは結婚前迄有りましたが今は棄てられた為残念です。あれ以降何度も友人と訪ねましたが杉集落からは生活の匂いが消え保月集落からは学校、郵便物が消え五僧集落からは倒壊していた2軒の家屋も無くてました。ただガタガタ道は舗装されてました。懐かしい動画、ありがとうございます。

  26. 廃集落の窃盗の件に関係するかは判りませんが、名古屋市内の某有名寺院の境内で毎月開催される骨董市があるのですが、カメラをぶら下げて歩いてたら出店者が「撮るな!」と言ってきた事があります。

  27. 何台か車が見えましたが車で来れる道があるのですね。撮影者が来た道と反対方向からですか?

  28. ちなみに公衆便所地に有る小学校跡の石碑は間違いで中学校分校校舎跡が正しいです。中に案内して貰いました。小学校校舎はすぐ隣に有りましたが積雪で倒壊の危険が有り近づいては駄目と言われました。郵便局跡は役場と併設されていまして既に空き家でした。位置は忘れましたが教員住居も残されてまして時折多賀町職員が利用すると言われてました。

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