昭和のいる・昭和こいる
「のいる・こいる」の漫才をお楽しみください。

#残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #のいるこいる

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残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね
https://www.youtube.com/@Showa-OWarai

昭和のいる・こいる
1. https://youtu.be/E6n7DwZZLxM
2. https://youtu.be/TBT_8-XlQVo

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昭和 のいる(1936年7月23日)本名は、岡田 弘。
昭和 こいる(1944年1月26日 – 2021年12月30日)本名は、庄田 太一。
 
芸名は「昭和を乗り越える」という験を担いだもの。
1964年、学生時代のアルバイト先であった神奈川県川崎市の歌声喫茶「エルサルバドル」で出会う。二人はその店で司会進行を務め、やりとりが面白いということで漫才師の道を勧められる。程なくして獅子てんや・瀬戸わんやを紹介され師事、1966年4月に「花園のいる・こいる」の名前でデビューを果たす。屋号の花園はアルバイトをしていた花園万頭に、のいる・こいるは「苦労を乗り越える」に由来。
当時は演芸ブームの真っ只中で、Wけんじの全盛期で東京漫才も上方に負けない勢いがあった頃である(同期はコント55号、横山やすし・西川きよし等)。
当初の芸名が「女性漫才によく間違われる(「のいる・こいる」→「のり子・こい子」と誤認される)」ということで、一時は師匠の名前をもらい「獅子のびる・瀬戸こえる」に改名。だが、のいるが急性肝炎となり「この名前は縁起が悪い」ということで、師匠たちと交友が厚かった三橋美智也の提案で現在の芸名に改名。
1975年以降は賞レースにも参加し、ダークホースと注目される(当時は「三味線漫才」のさがみ三太・良太と「毒舌漫才」のツービートがライバルと見なされていた)。
1980年初頭の漫才ブームの波には乗れるような芸風ではなく、三橋や二葉百合子の巡業に帯同する。
1984年、漫才協会真打ち昇進。昇進後、これと言った人気も出ないままベテラン芸人となっていたが、1999年、高田文夫の誘いで出演したフジテレビの『初詣!爆笑ヒットパレード』を切っ掛けに突如大ブレイクを果たす。出番は若手の海砂利水魚の次だったが、舞台袖の西川きよしや高田文夫にも大ウケし、昭和のいる・こいるのファンだったという玉置浩二に曲を作ってもらいCDも出した。
2013年の後半から、のいるの病気療養により、こいるがピンの漫談家として活動していた。さらにこいるは同じ馬風ファミリーで相方の療養という境遇であったあした順子としばしば組んで漫才で活動したこともあった。
 
・のいるの話を、こいるが面倒臭さそうに無気力に受け流し、困惑するのいるに対し、捕まえ所の無いこいるは人を食った態度を続ける。こいるはネタ中、一貫して以下のように適当な相づちを打つ。
・「良かった良かった良かった良かった」
・「分かった分かった分かった分かった」
・「しょうがねしょうがねしょうがねしょうがね」(しょうがない)
・「はいはいはいはい」
・「へいへいへいへいへい」
・「ほうほうほうほうほう」
・「はいはいはいはい。そうだよな、そうだよな、しょーがねーやしょーがねーやしょーがねーや。ほーほーほーほー、まぁどっちでもいいや。関係ねー関係ねー関係ねー」
※こいるが「はいはいはいはい」と言いながら、頭を下げ、両手を顔の横に持っていき、上下に小刻みに振る、というお決まりのポーズを行う。
 
・民謡を朗々と歌うのいるに対し、「分かっちゃいないな」とケチを付け、「僕は漫才界の原田直之と呼ばれている」と言いながら、こいるが取って代わると、何故か細切れ(「ー(伸ばす音)」をすべてハ行で発音する。【例】クーラー⇒クふラは)になって歌い出す。
・こいるが頭にハンカチを乗せた状態でフランク永井の歌を歌い、のいるがハンカチを取ると高音で歌う。
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